太寺山 高家寺 歴史

歴史

 太山寺文書の中には、室町時代の永正6年(1509年)9月、高家寺の住僧が明石郡内の天台宗寺院の僧とともに、京都祇園の神殿新築に当って上京し、 法華経千部を読誦したという記載があり、この時期には高家寺という寺院が既に建立されており、隆盛を誇っていたことがわかっています。 そして、『稲爪大明神縁起』には、天正6年(1578年)6月に当寺の南に位置する稲爪神社が、高山右近によって焼き払われたという記載があります。 明石市内には三木合戦の折に焼かれた社寺が多くあり、その折にこの高家寺も焼き討ちにあった可能性が高いと考えられています。

 宝暦12年(1762年)につくられた『播磨鑑』によれば、 「高家寺 天台宗 在太寺村大蔵谷ノ内也。太山寺末寺。小笠原忠政之建立也。此所ニ薬師堂(現本堂)アリ。則七佛薬師ノ一也。高家寺支配。」とあり、 元和年間明石城主であった小笠原忠政によって高家寺は建立され、薬師堂と称していたことが窺えます。 高家寺本堂の向拝の蟇股(かえるまた)には内側に小笠原氏の松皮菱(三階菱)の家紋が刻まれています。 これは、忠政が当寺を建立したことを本尊に告げるものであると解されています。

本堂の蟇股(かえるまた)の小笠原氏の松皮菱(三階菱)の家紋


小笠原忠政 (1596年〜1667年)

 徳川家康の曾孫(母が徳川家康の孫・登久姫)にあたり、大坂夏の陣にて父と兄を亡くしたことにより21歳で信濃国松本藩2代藩主となります。 2代将軍徳川秀忠の命により1617年より明石藩主となった後、明石城を築城しました。 その後、剣豪宮本武蔵とともに明石城下の町割を行い、1632年に豊前国小倉藩(小倉城)に転封されました。 茶人としても有名で、小笠原家茶道古流を興しました。 1637年に起こった島原の乱では6000人の軍を従えて鎮圧に貢献しています。 晩年、小笠原忠真(ただざね)と名を変えました。

小笠原忠政
小笠原忠政

小笠原忠政公による修正会関係の文書



太寺廃寺塔跡【兵庫県指定文化財(記念物)】

太寺廃寺塔跡【兵庫県指定文化財(記念物)】

 境内の南東隅には、現在も塔跡の土壇・礎石・心礎が残されており、塔跡の土壇は、東西12m、南北8mで、高さは約1.5mです。 土壇上の東寄りには礎石が3つ旧状をとどめて残っています。 いずれも径65cmの柱座を円形に造り出した痕跡が確認できます。 北側の2個の中心間隔は約2.5mあり、残りの1つは2つの石を結ぶ線と直角に約5m南の位置にあります。 これらを踏まえて塔の一辺は約7.3mであったと推定され、高さは一辺の4〜5倍であることから30〜35mとなり、五重塔であった可能性も考えられます。




太寺の由来

 当寺が所在する太寺は、江戸時代初めにつくられた『慶長播磨国絵図』にすでに「たい寺」との記載があり、 また、江戸時代中期の『播磨鑑』にも「太寺村」とあることから、江戸時代を通じてこの辺りが太寺と呼ばれていたことがわかります。 この太寺の語源としては、鎌倉時代に創建された高家寺を「タカイエデラ」と読み、それが訛ってタイデラとなったという説と、 本尊の薬師如来は太寺山からもらい受けたものであり、太寺山の分家という意味で太寺となったという説などがあります。

 また、この地に寺が造られた背景としては、当地が明石郡の中心地である明石郷にあり、 陸路である古代山陽道と海路である瀬戸内海に近く、東西交通の結節点であったことがあげられます。

周辺配置図