太山寺文書の中には、室町時代の永正6年(1509年)9月、高家寺の住僧が明石郡内の天台宗寺院の僧とともに、京都祇園の神殿新築に当って上京し、
法華経千部を読誦したという記載があり、この時期には高家寺という寺院が既に建立されており、隆盛を誇っていたことがわかっています。
そして、『稲爪大明神縁起』には、天正6年(1578年)6月に当寺の南に位置する稲爪神社が、高山右近によって焼き払われたという記載があります。
明石市内には三木合戦の折に焼かれた社寺が多くあり、その折にこの高家寺も焼き討ちにあった可能性が高いと考えられています。
宝暦12年(1762年)につくられた『播磨鑑』によれば、
「高家寺 天台宗 在太寺村大蔵谷ノ内也。太山寺末寺。小笠原忠政之建立也。此所ニ薬師堂(現本堂)アリ。則七佛薬師ノ一也。高家寺支配。」とあり、
元和年間明石城主であった小笠原忠政によって高家寺は建立され、薬師堂と称していたことが窺えます。
高家寺本堂の向拝の蟇股(かえるまた)には内側に小笠原氏の松皮菱(三階菱)の家紋が刻まれています。
これは、忠政が当寺を建立したことを本尊に告げるものであると解されています。
|